中川千代治について

市長三期、市政と世界平和に命を懸けた人 中川千代治

中川千代治

中川千代治氏は明治38年11月6日、愛媛県八幡浜市向灘の魚本家に生まれたが、後に宇和島市のいとこの中川鹿太郎氏の養子に迎えられた。
早稲田大学政経学部を卒業して予州銀行に入ったが、たちまちにして吉田支店長に抜擢されている。
その在職中に特産みかんを中心とするかん詰工業に着目、吉田産業株式会社を興して専務取締役に就任。
さらに明治製菓三津浜工場長、愛媛県罐詰工業組合理事長、日本食料統制組合理事長などを歴任、活躍した。
養父鹿太郎氏は、当時宇和島政財界の重鎮として活躍した人物で、その薫陶を受け、資質にも恵まれた中川氏は、やがて政界への大きな意欲を燃やすことになる。

最初の市長選は41歳の若さで立候補、惜しくもわずか6票の差で敗れたが、昭和34年5月の市長選では言論一本の戦いで見事当選を果たし、前後3期9年間を宇和島市長として市政のため、市民のため献身した。
中川氏は、自由闊達な視野と、そこから生まれるスケールの大きさでは常人の追随を許さぬものを持っていた。その思想と理念は多くの人々を魅了するに十分であった。自らも第二次世界大戦中ビルマ戦線にあって生死をさまよった中川氏が、戦争の悲惨さから世界全人類を平和のなかにと考えたこともその一つの表れであった。
今が「人類の終戦紀元」になることを願い、平和を祈念し、鐘声を以て人々の魂を鎮めんと、世界各国の硬貨を集めて「平和の鐘」を鋳造することを企画、平和運動への第一歩を踏み出したのである。昭和25年2月、自分が戦場に携えた軍刀と26カ国の貨幣で鋳造した「世界絶対平和万歳の鐘」を宇和島市の泰平寺に設置。

これを親鐘として、昭和29年ニューヨーク国連本部前庭にローマ法王ピオ12世より寄贈の金貨9枚をはじめ、世界65カ国の貨幣やメダルで鋳造した子鐘を贈呈。
続いて東西緊張高まる昭和36年には米国ケネディ大統領、ソ連フルシチョフ首相に姉妹鐘を贈呈。さらには全世界140カ国の元首にピースベルのレプリカを贈呈するなど、国連を通じて「平和の鐘」は世界の人々に届けられる一大平和運動に展開していったのである。

国連本部から打ち鳴らされる「平和の鐘」の音が世界絶対平和の祈りを全世界の人々の心に伝えるものとなり、宇和島市は、その発祥の地となったのである。
そして昭和46年11月1日、市制施行50周年に際し、「平和自治の本領を発揮して、世界絶対平和顕現の目的を達成するため〝世界絶対平和都市〟を宣言するに至った。人類の悲願である平和実現のために南予の一市である宇和島市がその先頭に立った。この遠大な理想は中川氏の信念によって誕生したともいえよう。

昭和47年2月25日、中川氏は市長在任中、肝臓ガンのため、惜しまれながら亡くなった。
数々の功績に対し、正六位勲五等旭日章を受章した中川市長の市葬は、風なお冷たい3月4日、市公会堂大宮ホールで執り行われた。

神田山泰平寺に奉納された「平和の鐘」の親鐘

【郷土発展の史実を追う】発行・(有)グリーン企画

国連「平和の鐘」初一念を貫いた無名の人 -中川千代治-

ソ連戦勝記念塔の前

1951年(昭和26年)10月末、その当時ヨーロッパ移動特派員としてパリから西ドイツを訪れ、しばらくフランクフルトのホテルに旅装をといていた。
ヨーロッパ大陸の冬は早い。10月の半ばを過ぎると風は冷たく、ほとんど一日中、厚い雲に覆われ、陽光さんさんたる日本の秋空を知っている身にとっては何とも憂うつな季節のはじまりだった。
その頃は、まだ第2次大戦の激しかった戦火の名残が西ドイツ国内の主な都会に残っていた。
交通の要衝でマイン河畔のフランクフルトも瓦礫(がれき)の山が方々にあったし、フランクフルト駅のドームには、激しかった機上からの機銃掃射の跡を物語る大小無数の蜂の巣のような穴があいたままだった。

それでも西ドイツの復興を示すように壊れた建物の間に新しいビル建設が進められ、薄暗い日中の繁華街には赤いネオンがまたたき、パリで人々がノロノロと歩くのに比べ、さっそうと足早に歩く市民の姿が、なんとなくフランスとドイツのお国ぶりを示すかのようであった。
なにしろ第2次大戦が終わって僅かに6年目、しかも西も東もはじめての独り旅である。
当時、パリ、ロンドン、ローマでも日本大使館の再開は認められず日本政府在外事務所の看板を掲げていたが、西ドイツにはその在外事務所もまだなかった。
むろん、日本人旅行者もきわめて少なかったし、戦前からのヨーロッパ在住邦人もほんのひと握りの数だった。フランクフルトでは、まったく日本人に会わない毎日であった。

そうしたある日の夕方、私の泊まっていたホテルの部屋にフロントから電話がかかってきた。
用件は「日本人が二人来ているが、言葉がよく通じないので、下りて来てくれないか」ということだった。旅先で旅行者の不自由さは身にしみる。
久しぶりに日本語で喋れる楽しみもあって、フロントに下りて行ったところ、珍しくもヒゲをはやした同胞が2人、疲れた表情で立っていた。

その一人、口ヒゲをはやした方が四国・宇和島から来た中川千代治さん、もう一人はあごヒゲをのばした佐賀県の県会議長さんだった。
同じホテルにチェックインしたお二人から食事を共にしながら話をうかがっているうちに、中川千代治さんの訪欧目的を聞いて、実は大変びっくりもしたし、煙にまかれたように感じた。
このお二人はパリの国際連合協会世界連盟総会に出席したあと、西ドイツに寄られたのだが、中川千代治さんは、「私は国連協会の宇和島支部長です。
世界を再び対戦の惨禍から防ぐため、世界の恒久平和確立こそ絶対に必要だと思い、そのため国連の大きな役割に期待しています・・・」ということからはじまって、〝世界絶対平和〟という主張を強調された。
はじめての敗戦に打ちひしがれた当時の日本としては、平和への渇望(かつぼう)は強く、この〝絶対平和論〟についても多少とも神がかり的な精神論で日本人には何となくわからないでもない論旨だったが、西欧では通じにくいことを指摘した。

中川さんも、それはよく承知していたようで「だから私は、だれにでも世界絶対平和の意味が具象的に理解できるよう「平和の鐘」(PeaceBell)、つまり日本の梵鐘をついて平和を祈ることを考えたのです」と四国弁をまじえながら、とつとつとこう語った。

「第2次大戦で日本は原爆の洗礼を受けた。この恐ろしい犠牲と悲劇は、英知あるはずの人類にとって最大の汚点だ。なぜ戦争を繰り返さねばならないのか、それはひいては人間の心の問題だ。心が間違っているから戦争が起きる。
自分は世界人類を大戦争の危機から救うため人間の心に響く実像的なものを作りたい。それは「平和の鐘」である。
この鐘を国連本部に寄付して、高らかに響かせることにより世界平和への思いを呼び掛けたい。鐘の音は人の心に平安な気持ちを呼び起こす、というのが私の信念だ。
そして、この「平和の鐘」には、世界の多くの人々の願いをこめるため、世界各国のコインとメダルを鋳込んで作りたい。
寄付金を集めるのではなく、私のこの趣旨に賛同してくれた人々の生活の汗がこもったコインを一つ出してくれればよい。これが私の訪欧旅行のほんとうの目的です」と。
だいたい、こうした話だったが、もしこの「平和の鐘」が実現すれば、国連本部に寄付する。それに要する一切の費用は中川さん個人の負担であることもわかった。

前に触れたように、敗戦後の日本では平和への願いは強く、いろいろな形の平和運動なり平和祈願の運動が繰り展げられていた。
その中にあって、中川さんの「各国のコイン、メダル類を集めて「平和の鐘」を作り、国連本部に贈って鐘の音を鳴り響かせる」というアイディアは、たしかにユニークなものだった。
しかし「平和の鐘を鳴らして世界平和が実現するのか」ということになれば、現実性に欠ける。あくまで世界平和を願う一つのシンボルとしてならば、わからぬことではない。

中川さんが「平和の鐘」建立(こんりゅう)について、まじめに語れば語るほど、「少しおかしいのではないか」、「売名の徒」か、何か特定団体のヒモ付きか、あるいは商売に利用するのか、そうした疑念は、当初私も感じたものだった。

その後、フランフルト滞在中、平和論と「平和の鐘」について中川さんから波状攻撃をかけられた。私は仕事の関係からベルリンに行くことになった。
当時のベルリンは「赤い海の中に浮かぶ孤島」と呼ばれ東西〝冷たい戦争〟の焦点だった。まだ「ベルリンの壁」は作られていなかったが、境界線を挟んでの物騒なニュースも多かった。
「ぜひベルリンに一緒に連れて行ってもらいたい。冷戦の焦点ベルリンこそ平和を訴える場所だ」と、中川さんのたっての話なのでフランクフルトから空路ベルリンに向かった。中川さんと一緒だった佐賀県の県会議長さんとはフランクフルトで別れた。

西ベルリンに向かうパンナム機の中で、中川さんは米国人スチュワーデスに日本から用意してきた英文の「平和の鐘」趣意書を渡した。
はじめけげんな顔で、それを受け取ったスチュワーデスは、「オーケー。わかりました。ダイム(10セント貨)をあげましょう」と、ダイム数個を持ってきた。中川さんは、サンキューを連発して、ご機嫌だった。

さて西ベルリンに着いてから、中川さんと一緒の日がつづいた。部屋も一緒、食事も一緒、私が取材したり出掛ける時も中川さんはついてきた。なにしろ日本語オンリーの中川さんにすれば、まったく不案内の西ベルリンで、私と離れていては心細いというわけである。
私はベルリンは初めてだし、ドイツ語もおぼつかない。米国のUP通信(現在UPI通信)のベルリン支局に大変お世話になった。フレーミング支局長も親切で、必要なところによく案内してくれた。

東ベルリン(当時)のブランデンブルグ門を臨む西ベルリンの一角に、ソ連軍の戦勝記念塔がある。
1945年4月から5月初めにかけてジューコフ元帥の率いるソ連部隊がベルリンを守るナチ親衛隊との間で最後の猛烈な市街戦を展開、ついにベルリンに赤旗を掲げた勝利の記念塔でる。
当時、そこは西ベルリンの中にある特別地区で、常時自動小銃をかまえたソ連兵が警備していた。
西ベルリン市民は寄り付かないが、私はフレーミング支局長とUP通信カメラマン、それに中川さんの4人でここを訪れた。

警備のソ連兵と一緒に写真もとったし、若い将校に「平和の鐘」のことも話してみた。余りあてにしなかったものの、そのソ連将校がポケットからカペイカ貨をさし出したのには驚いた。中川さんの喜びようは大変なものだった。
西ベルリンの高級住宅街に戦前から声楽家の田中路子さん(故人)が、ご主人で映画監督のデコーワ氏と住んでおられた。
食事に招待されたので中川さんと一緒にお宅にうかがったが、哲学的瞑想にふけるというデコーワ氏は、中川さんの「平和の鐘」と「世界絶対平和」論に興味を持たれたようだった。
それからは、中川さんの独断場である。神ながらの道を説き、絶対平和の神髄(しんずい)なるものを説いた。
通訳する田中路子さんも「日本語の意味がよくわからないワ」と悲鳴をあげていた。

むろんデコーワ家からコインと古いメダルの寄付があった。
おそらく「平和の鐘」の趣旨を理解したかどうかは別として、何よりも中川さんの人柄と平和を説く熱意に好感を寄せたのであろう。
同行、同宿している間に、私も中川さんのひたむきな言動に洗脳されはじめたのかもしれない。ぜひとも「平和の鐘」を実現させたい気になった。
トランクの隅にあった中近東地方やヨーロッパ各国のコインも渡したし、帰国してから「平和の鐘」と中川千代治氏のことを毎日新聞で紹介した。その後、上京されるたびに「平和の鐘」の報告やら相談に乗った。国連は個人の寄付を受け付けない。
ちゃんとした国連関係の団体からの贈り物は受け入れるので、「平和の鐘」は日本国連協会に協力を頼んだ。こうした縁で中川さんと「平和の鐘」の件は、私にとって終生忘れ得ぬ思い出となった。

当初、夢のような話がついに実現した。昭和29年(1954年)6月、高さ100cm、直径60cm、「世界絶対平和祈願」の文字と各国のコインを鋳込んだ「平和の鐘」は日本国連協会の名をもって国連本部に寄付され、国連本部の前庭の一角に作られた見事な鐘楼の中に納められた。しかし鐘にも鐘楼にも中川千代治の名はどこにもない。

「平和の鐘」の実現まで中川さんが投じた私財はどれほどだったか、わからない。いただいたら、また家族の方々はじめ郷土の四国の親戚、知友、その他の応援者、日本国連協会の関係者など暖かい協力があったのも見逃せない。
こうした初一念を通した無名の一日本人がいたことは殆ど知られていない。
毎月10月の国連デーには、この鐘が鳴らされるならわしだが、昭和47年2月、宇和島で66歳の生涯を閉じられた中川千代治さんは、おそらく本望だったに違いない。

私の長女の結婚披露宴に元気な姿を見せた中川さんと語り合ったのが最後となってしまった。人の出会いと別れ、人は何をすべきかを教えてくれた中川さんだった。

昭和46年 宇和島市は「世界絶対平和都市」を宣言

世界絶対平和都市宣言

中川千代治が市長在任中の昭和46年11月1日、宇和島市は市制50周年に際し、「世界絶対平和都市」を宣言。平和運動の先頭に立った。

多くの人に寄り添い、平和を願った人、中川千代治。

昭和43年 宇和島市長初当選 さっそうと初登庁 言論一本で選挙を戦う昭和38年 台風9号による被害状況視察 市長として災害にも自ら先頭に立つ
昭和43年 敬老の日にお年寄りを訪問 高齢者にも温かく寄り添う市制50周年記念行事 おちゃめな一面も