平和の鐘の成り立ち

「二度と戦争をしてはいけない」と願い、造られました。

昭和17年7月ビルマにて負傷(台北陸軍野戦病院にて)

平和の鐘は日本の愛媛県宇和島市の一市民である中川千代治氏が、第2次世界大戦に徴集され、ビルマ戦線での激戦の中、連隊は全滅本人も足を射抜かれ、 意識を失い、気が付くとパゴダ(ビルマの仏塔)の中で一人生き残るという悲惨で残酷な体験をしました。中川氏は自分だけが生き残ったという申し訳なさに苦しみます。 彼が行きついたのは「二度と戦争をしてはいけない」と言う事を伝える事が自分が生き残ったことの使命だと決心しました。

戦後世界を回って集めた26ヵ国のコインを溶かし
「世界絶対平和万歳の鐘」を奉納

世界絶対平和万歳の鐘

終戦後まもない昭和25年宇和島市の自らの菩提寺、泰平寺の鐘楼が戦争で吊り鐘を拠出され、空になっていたことに気づき、 自分が戦場に携えた軍刀と戦後世界を回って集めた26カ国のコインを溶かして平和を祈り、「世界絶対平和万歳の鐘」を奉納した。

昭和25年 天皇陛下 宇和島ご巡幸

天皇陛下 宇和島ご巡幸天皇陛下 宇和島ご巡幸

天皇陛下に泰平寺と同じ硬貨が鋳込まれたレプリカを献納

国連総会に出席し「平和の鐘」の贈呈を申請する

国連総会に出席し「平和の鐘」寄贈を提案する

昭和26年フランスはパリで、第6回国連総会が開催された。 まだ国連に加盟を許されない日本だが、中川千代治氏は日本国連協会代表でオブザーバーとして実費で参加した。 その時彼は「世界の平和を願う人々からコインを貰い、その平和への祈りを一つにした鐘を国連に寄贈し、 その鐘を世界の平和のために鳴らして欲しい」と訴え、その時に日本の泰平寺の鐘の音をテープで流した。

こちらから泰平寺の鐘の音をお聞きになれます。

「世界絶対平和万歳の鐘」の活動が開始

危険を冒して東ドイツへ向かう(東西ドイツの境界独ソ戦争記念塔前)

昭和27年国連経済社会理事会で「世界絶対平和万歳の鐘」が人類希求の声としてニューヨークの国連本部完成の記念に受理されることが決定した。 当時国連に加盟できていない日本の一国民の申請を世界の国連に受理して頂けたことは奇跡的なことでした。

中川氏は総会参加国65カ国の代表者から各国の硬貨の寄贈を受け、イタリアではヴァチカン宮殿に寄り、ローマ法皇ピオ12世に拝謁し、キリスト及びマリア像の金貨を頂いた。

また冷戦焦点のベルリンに入国し、自動小銃を構えたソ連兵に「平和の鐘」の趣旨を訴え、カペイカ貨幣を貰いました。

ここに中川千代治氏の理念とする「国や民族、主義、宗教の違いを超えた、世界絶対平和万歳の鐘」の活動が開始したのです。

人々の思いが詰まったたくさんのコイン

人々の思いが詰まったたくさんのコイン

日本に於いては、宇和島市民をはじめ県内外を問わず共感した大勢の方達が協力を申し出た。多くの古銭、30貫の硬貨、日本刀のつば、弾丸、銅章、各宗派のバッジ、神社の銅板等が集まりました。

中川氏の思いに共感し、無償で製造に携わった方々

中川氏の思いに共感し、無償で製造に携わった方々

鐘の鋳造は、高松市の名門多田鋳造所、第14代多田丈之助氏に依頼、鐘楼は宇和島市津島町須下の宮大工、大下林平氏に依頼しました。

両氏ともこの趣旨に共感し、無償の仕事を引き受けてくださいました。

「平和の鐘」完成を祝う 壮行会が行われる

「平和の鐘」完成を祝う 壮行会が行われる

昭和28年12月

出来上がった鐘の壮行会が宇和島市の城南中学校校庭で行われた。

市長、教育長出席のもと宇和島市の小中学生1500人が参加して、出来上がった鐘の除幕式が行われた。

「平和の鐘」がニューヨーク国連本部に向け出発

「平和の鐘」がニューヨーク国連本部に向け出発

昭和28年12月

神奈川県県庁正門前で、元梨本宮妃殿下ご臨席のもと壮行会が荘厳裡に行われ、 「平和の鐘」は横浜港よりニューヨーク国連本部に向け出発しました。

長崎から被爆地の土が届けられる

長崎から被爆地の土が届けられる

広島で被爆された禅宗住職と、長崎からはキリスト教徒の女子学生から、一握りの被爆地の土を鐘楼の礎石の下に埋めて欲しいと届けられ、鐘と一緒にニューヨークに送られた。

「平和の鐘」がニューヨークに到着

「平和の鐘」がニューヨークに到着

昭和29年1月、飯野海運の処女航海の常島丸でニューヨークに到着した。この時飯野海運は無償で運搬を請け負った。

平和の鐘 贈呈式

平和の鐘 贈呈式

昭和29年6月8日 澤田廉三国連大使、ベンジャミン・コーエン国連事務局次長立会いのもと、平和の鐘の贈呈式が行われた。澤田氏は中川の大変な後援者であり、協力者であった。

この時残念ながら中川は旅費が工面できず、大切な贈呈式に出席することができなかった。